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『おっぱい』 短編小説です。

おっぱい



 蒸し暑い八月の夕方。
 建仁寺にある両足院に私はいた。隣には兄が座ってる。
 両足院には、坐禅をしにきた。
 兄妹で坐禅なんて、妙かもだが「そう云うたら、坐禅したことないな・・・」と、兄の独り言を聴いて「私もやわ」と、私は兄について京都に来た。
 兄は、ひとりでぶらつくのが気楽らしいが、私は兄と歩くのが好きだった。兄はいつも黙っていて、私と歩いている。
 「今日は、暑い中、ようお越しになりました。建仁寺で副住職を努めさせていただいてるイトウと申します」と、黒い法衣を着たイトウさんが云った。
 奥の方にも座れますんで、できましたら、もう少し、おつめいただけると有り難いです。と、イトウさんが云うから、私と兄は後ろの座布団に移動した。
 細長い座敷には三十人くらいの人がいて、二列に並べてある座布団にそれぞれ座っていく。
 後ろの障子は開けてあり、風が通り抜けて涼しい。私と兄は、その涼しい場所にうまく座ることができた。
 ヒグラシが鳴いていた。
 遠雷が遠くで聴こえていた。
 雷を聴きながら、風神雷神がいるお寺さんやったなぁ、ふと、空中で小さな太鼓を叩いている雷神の顔を思い出していた。
 「坐禅が初めての方も多いかと思います。三十分を前半と後半に分けまして、途中、五分ほど休憩を入れさせていただきます。坐禅が始まる合図は」と、イトウさんは云い、チーンと鈴を鳴らした。
 「これが合図でございます。背筋を伸ばし、目を半眼にたもち四十五度ほど下を見ていただき・・・、できれば心のなかで、ひとーつ、ふたーつ、みっーつ、と十まで唱えてください。もし、どこかで引っかかったと思ったら、また最初から、ひとーつ、ふたーつと戻るのがコツでございます」と、イトウさんは云った。
 真面目な顔をして聞いている兄が、可笑しい。
 一匹のアブラゼミが、庭で鳴きだした。
 雷神が近くにいるのか、晴れているのに空がゴロゴロと騒がしかった。
 心がざわついていた。
 「この棒は、決して罰するためのものではございません。『警策(けいさく)』と云ってみなさんの坐禅をお助けするモノだとお考えください。どちらかが前で手を合わすと、それが叩きますよ、叩いてください、という合図でございます。中には、坐禅の最中に歩いている私をご覧になる方がおられます。私と目が合ったら、『叩かれる』と、お考えください」と、イトウさんは云った。
 言われたとおり、私は胡座をかいて仏像のように目を半眼にし畳をぼんやり眺めていた。畳の上で、小さな鬼たちが遊んでいるのを、つい、想像してしまう。
 私は何も考えないように、静かに呼吸を整え、こころの中で数を数えていた。ひとーつ、ふたーつ、みーっつ・・・。
 隣に兄の気配がする。

 チーンと鈴の音がした。
 


 
 猫に乳首をひっかかれて怪我をした。猫を抱き上げたときのことだ。
 痛くて触わっていると、右上にしこりがあるのに気づいた。
 

         ☆

 
 「痛いでしょう」と、乳首の怪我を見ながら医者が云った。
 洒落た黒縁メガネをかけた若い男性の医者だ。いくぶん恥ずかしかったが、仕方がなかった。
 「失礼します」と、医者は短く云うと触診をした。
 「ああ、しこりがありますね。今の段階では、なんとも言えませんが、検査を受けられた方がいいでしょう」と、医者は穏やかに云った。
 その日は、次の予約を入れ、塗り薬をもらい帰宅した。三週間後、詳しい検査をするらしい。もし、悪いモノだったら嫌やな。そんなことばかり考えていた。
 そんなに放っておいても大丈夫なの?
 とても怖かったのを憶えている。

 
 夕方、家に帰ると母がいつものようにご飯の支度をしていた。
 「お父さんは?」
 「兄ちゃんと釣りに行って、今日は帰らへんわ」
 「どこ?」
 「島根の浜田港とか云ってたで」
 「むっちゃ遠いな。兄ちゃん、運転手やらされてんねんな」と、私が云うと母が笑った。
 今日は金曜日で、二人とも明日から三連休だった。
 「あんたは、仕事?」と、母が訊いた。
 「土曜は出なあかんねん」と、私は云った。
 私は水泳のコーチを仕事にしていた。日曜日と祝日は休みだけど、明日は水泳教室に通う子どもたちを指導する日だ。子どもたちが上手になっていくのを見るのが好きだった。
 おっぱいが無くなったら、胸にパットやな。とか、考えてしまう。かっこ悪くなったら嫌だな。モテないだろうな・・・。
 野球中継が流れていた。
 母は、巨人ファンで野球シーズン中は、居間のテレビを母が占領している。兄はなぜか中日を応援していて母と険悪な空気を漂わせることがあった。野球なんてどうでもいい私と父は、早くシーズンが終わってくれと、毎年のように願っていた。
 「どうやったん?」と、母が炊飯器からご飯をよそいながら云った。
 「三週間後に、もっかい行ってくるわ」
 「大丈夫なん?」と、母は心配そうに訊いた。
 「大丈夫やろ」
 そう云うと、私も母も、不安になって黙ってしまった。
 大丈夫やろ。
 


 
 「肺と肝臓に転移が見られます」と、レントゲン写真を見ながら先生は云った。
 私は黙って聞いていた。
 「今後は、ホルモン治療か抗癌剤を使った治療を行うことになります」と、先生は云った。
 机に広げたカルテを見ると『悪性』に丸がついていた。先生が走り書きをしているカルテには、私の名前が書いてあった。
 「予後は1年です」
 予後って何? 寿命ってこと? 1年しか生きられないってこと? 来年の今頃、私はいないの?
 乳がんについて三週間の間、私なりにインターネットで調べて詳しくなっていた。早期の発見だと、おっぱいがなくなることはあっても生存率は90パーセントくらいある。
 悪くてステージのⅡくらいに思っていた。
 肺と肝臓に転移?
 ステージ・Ⅳ?
 28歳なのに?
 何も考えられなかった。手にいっぱい汗をかいていた。変に腕と肩が熱くなっていた。小指と中指が小さく震えていた。
 「この病院では、がん患者さんのカウンセリングを行ってますので、行かれてはいかがでしょうか」と、医者は静かに云った。
 私は黙ってうなずいていた。
 



 兄が四条に行くと云うので、私はついて行くことにした。
 「さびしそうやから、ついてったるわ」と、私は云った。
 「おまえ邪魔」
 「ええやん、彼女にフラれたん知ってるねんで」
 「邪魔や。今日はひとりでぶらつきたいねん」
 「今月はボーナスやから、美味しい京料理おごったろう思てたのに」と、私は云った。
 「キリっと冷えた竹に入った酒が出てくるお店か? 和久傳とか」と、兄が云った。
 「ないない、美味しくて暖かくて安い店やな」と、私は笑いながら云った。


 家族には、病気のことを告げなければならない。
 でも、できるだけ先に伸ばしたかった。できるなら、仕事も続けられるところまで続けたかった。プールサイドに並ぶ、子どもたちを思い出していた。
 「仕事を続けたいのですが」と、私が訊いたら「治療が始まったら難しいと思います」と、医者は告げた。
 なら、このまま治療なんてしない。
 どうしていいか分からなかった。
 分からないよ。
 私。
 

        ☆


 夕暮れ時、私は兄と先斗町の細い路地を歩いてた。通りに沿って吊り下げられている赤い提灯が灯る
 「この路地を眺めてると、幽霊とか妖怪が歩いているように見える」と、兄が云った。
 「魑魅魍魎ってヤツ?」と、私は云った。
 「ここに立って、細い路地を歩いている人を見ると、そんな風に思わへん?」と、兄が訊いた。
 私は立ち止まって、細い路地を眺めてみた。そんな妖かしがいるのだろうか、と。
 「おるやろ?」と、兄が云った。
 「そうやろか?」
 そう兄に云われてみると、そんな風にも見えてきた。
 ブランコのある公園で、桜の樹に寄り添い若いカップルがキスをしていた。その先に鴨川が流れていた。
 「あそこのカップルが怪しいかな・・・」
 西の空が真っ赤に染まっていた。
 「いちゃついてるだけや」と、兄がそっぽを向いて云った。
 「うらやましいんか?」と、私が云った。
 「やかましわ」と、兄が云った。


 以前、つき合ってたカレシと行ったことがある店に兄を案内した。
 鶏料理の店だ。
 「ここ、高いんちゃうの?」と、兄が小さな声で訊いた。
 「大丈夫や。そんなに高ない、と思う」と、私も小さな声で答えた。
 「ツクネがむっちゃ美味しかってん。それとワインも焼酎も」と、私は元気よく云った。
 竹の日本酒とちゃうけど、とも。
 私と兄は、オススメの白ワインをボトルで頼んで、ツクネと秋田比内鶏、名古屋コーチン、薩摩軍鶏の串焼きをオーダーした。
 とても贅沢な気分だった。父と母にサンドイッチを包んでもらうことにする。
 「この先にあるの建仁寺だっけ」と、私は兄に訊いた。
 「そう、禅寺の」
 「坐禅って、やったことないなぁ」と、私は云った。
 「失礼します」と、ワイングラスに冷えた白ワインを店員が注いでくれる。
 「俺もない」
 そう云うと、兄は嬉しそうにワインを一口飲んだ。
 兄は、予備校の英語講師だった。結構、人気があるらしい。
 フラれた彼女の話は、何も教えてくれなかった。今の私には、どうでもいいけど・・・。
 「兄ちゃん、小学6年の夏休み、小説書きたいって云ってたの覚えてる?」
 「いまでもそうやで」
 「書いたらええやん」
 「忙しいねん」と、兄は困ったように答えた。
 とても書く時間なんか取れないと云う。
 「時間なんかいっぱいやんか」と、私は呟いた。
 涙が溜まっていた。
 その内、ぽろぽろとこぼれ落ちる。涙が止まらなかった。
 もう、何も見えなくなっていた。




 副住職のイトウさんが前を通ったとき、兄は手を前で合わせて礼をした。
 イトウさんも手を合わせて礼をする。
 右肩と左肩を二度づつ、兄は警策で肩を打たれていた。私は隣で警策の音を聴いていたが、兄の気配を感じながら、じっと坐禅を続けていた。
 誰かの肩を警策で打つ音が聴こえる。
 雨が激しくなっていた。
 青かった空が、真っ暗な空に変わっていた。陽が暮れたように部屋が暗い。
 大きな音がした。
 近くに雷が落ちたらしい。外で風神も雷神も大騒ぎをしている。その音を聴いて、私は神様に励まされているような気がしていた。 
 うまく云えないけど・・・。
 イトウさんが近づく気配を感じた。
 ふと、イトウさんが私の前で足を止めるのが分かった。私は驚いたが、じっとしていると、イトウさんは静かに通りすぎて行った。
 

 チーンと鈴の音がした。

 
 終わりの合図だった。
 「みなさんよくお勤めくださいました」と、イトウさんは静かに云った。
 張り詰めた空気がとけていく。
 「坐禅を体験なさると分かるのですが、なかなか、心を無にする、・・・のは難しいかったのではないでしょうか」と、イトウさんは続けた。
 たった半時の坐禅だったが、雑念だらけの自分に気づく。
 兄は何を考えていたのだろうか。
 「両足院の庭をご覧いただいてから、お帰りになられるとよいか、と思います。普段はお見せできないのですが、今日、坐禅にお越しいただいた方に見ていただければ・・・、丁度、雨が上がってお日さんが出て、庭が輝いているようでございます」と、云うとイトウさんは手を合わせて目礼をした。


 私は、兄に続いて庭に出た。
 空の天井には、丸い輪になった虹が出ている。不思議な虹だった。私と兄はしばらく空を見上げていた。空気が少し冷たくなった気がした。
 ヒグラシが、また、鳴き始めていた。
 
 
         ☆
 
 
 先斗町の細い路地は、前に来たときと同じように、赤い提灯が灯っていた。
 兄は黙って歩き、その後を私も黙ってついて行く。
 「幽霊とか妖怪とかが歩いているように見える」と、云っていた兄の言葉を、ふと、思い出した。
 確かに、そうかも知れない。
 暗い路地には、人でないものが混じっているのが、今ならわかる。
 私たちは見覚えのある公園から、鴨川を眺めていた。ブランコには誰も座っていなかったが、滑り台で女の子を遊ばせているお母さんがいた。
 家が近くなのだろうか?
 「鴨川に行ってみない?」と、私は云った。
 兄は黙って頷いているように見えた。
 私たちは四条大橋に戻り、階段を下って鴨川に降りた。
 もう、陽がくれて暗くなった鴨川に街の灯りが反射していた。
 鴨川の真ん中にアオサギがポツンと立っているのが見えた。等間隔にアベックが座っていた。私が高校生の頃から、ずっと変わらない光景だった。昔、大好きだった男の子とすごした場所には、違うカップルが座っていた。
 兄と私は、アベックの邪魔にならない場所を探し、座った。向かいの岸にも等間隔でアベックが並んでいるのが、おかしい。
 座ると川面が近くなり、川が流れる音が聴こえてきた。四条大橋には、大勢の人やクルマが行き交っていた。
 橋の上から写真を撮っている人もいたし、托鉢する僧侶の後ろ姿も見えた。
 時折、後ろを自転車が通る。
 私はぼんやりと鴨川を眺めていた。

 兄が私の名前を呟いた。

 私は返事をしようと思ったが、聴こえやしないから黙って座っていた。
 私が死んでから、もう、3年になる。
                                         〈了〉

文:紙本櫻士

 

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